理解しがたい恣意的な理論構築について
たまにこのような主旨の主張をかましてくる人がいます。
①私がこんなに苦しんでるんだから、お前も苦しめ
②私は今までの人生これだけついてなかったんだから、運を全然使っていない。だからこれからは何かいいことがあるはずだ
③自分は必死こいて努力してるのに誰もそれを見てくれない。どうせ見れくれないんだったら悪いことしちゃえ
①はやりたくない仕事だが家族のために自己犠牲の精神で働いていると自画自賛する父親や、無能な部下を抱えて自分はこんなに頑張っていると称する上司に多いです。
②は人生ほとんど何も努力してこなかった人が、なぜかギャンブルや結婚で逆転できると思い込んでいるパターンに多いです。
③は不倫や横領犯罪に多いパターンです
これらの思想を抱くのは個人の自由ですし、そういった人を批判するつもりはないのですが、これらの理論について思うところがあるので書きたいと思います。
まず①ですが、何の利害関係もないですよね。
誰がどれだけ苦しんでようが、それは本人の問題です。
助けてくれ、理解してくれと頼むならまだしも、お前も苦しめという主張がなかなかに下等で面白いですw
人の不幸にしか喜びを見出せなくなったら人間おしまいだと言われますが、多分そういうタイプの人でしょう。
ただ、なぜこのような理論構築、価値観醸成に至るのかはよく理解できません。
自分の人生に望みが無くなったから、せめて誰かを道連れにしてやれ的な志向なのでしょうか?
②に関してはむしろ逆ですよね。ついてない人はとことんついてないだけで、努力せずして運が上向くなんてことはまずないと思われますw
パチンコなどでも、大当たりが出ないまま回転数がハマればハマるほど当たりやすくなるという人がいますが、その逆で終日当たらないという最悪の可能性を考慮しないのはなぜでしょうか?
③は立場上やって当たり前のことをやってるだけなのに、なぜか努力してると誇張する人ですよね。
「では成果は?」と言われたときに何も提示できないものを、世間では努力とは呼ばないのです。
若干ブーメランな気もしますが、自戒の意味も含めて書いてきました…!